新井素子の小説について「あたし」という一人称を抜きに語ることはできない。 この一人称は単に文体的な理由からのみではなく新井素子の小説の本質に深く関わっている。 「あたし」とは何か。 文体的には語り手をあらわす言葉の一つだ。 しかし自らのことをあたしと呼ぶ語り手にはどこかしら不完全な印象が伴う。 不完全というのは成熟していないという意味だ。 事実彼女の初期の小説は一般的な意味では成熟していなかった。 小松や筒井がそれを幼いと言って批判したのは当然だろう。 あたしという一人称はそれを隠蔽する役割を担っている。 舞台となる世界が狭いのはあたしの世界が狭いからだ。当然持つであろう 疑問について記述されないのはあたしがそんなことに興味を 持たないからだ。あたしという一人称は世界の限界をあたしの限界と 一致させるための装置だ。それゆえその世界は創作技術上自然なものと なる。「あたし」は十七歳の少女が物語作者となるため必要な武器だった。 しかしそれだけではない。 あたしを重視するのはあたし以外の人との距離を作ることと無縁ではない。 またあたしを取り巻くあたしではない「世界」を強調することとも無縁ではない。 新井素子の小説の中では「世界」は常にあたしに対する制約として 働いている。あるいは障壁と言ってもよい。 新井素子の作品に繰り返し出てくるモチーフに「革命」がある。 さらに特徴的なことは革命が成就しないことにある。これをもっと広く 「世界をよりよく変えようとする試みは失敗する」と言い換えてもよい。 その典型である 『大きな壁の中と外』と『いつか猫になる日まで』は 同じモチーフを持っていることが知られているが それ以外の作品についてもこの命題は見事なまでに当てはまる。 『グリーン・レクイエム』しかり。 『ひとめあなたに……』しかり。 『……絶句』しかり。 『チグリスとユーフラテス』までもがそうだ。 さらにこれは人間関係についても言える。 新井素子の小説においては誰かが誰かを変えるということがほとんどない。 人は自分一人で勝手に傷つき勝手に癒される。 そこにコミュニケーションは存在しない。 『ひとめあなたに……』や 『チグリスとユーフラテス』が奇妙な構造になっているのはこのためだ。 『あなたにここにいて欲しい』において描かれるのも遠回りの自殺行為でしかない。 このように無限の遠くにある世界や他者をあたしはあたしの中から眺めている。 これは相当悲観的な世界観である。 しかしこれこそが新井素子の小説においてもっとも重要なことだ。 時代的な背景もあるのだろう。新井素子が登場するのは革命の季節が 終わった70年代である。人々がきっと方法を間違えていたのだろうと 考えていたであろうその時期に新井素子はそもそも社会とまともに 組み合うこと自体が不可能ではないかと考えていた。 それは現代ではより強く共有されているはずの思考である。 私たちは世界を変えられない。 私たちは他者とコミュニケートできない。 新井素子の小説の登場人物がある種極端に倫理的に振舞うように見えるのは この二つの命題を維持したまま前向きに生きようとした結果だといえる。 そしてこのことは私が新井素子について 語りつづけようとしていることとも関係している。 新井素子の小説の主題は私たちの生に直接結びついている。 私たちは世界を変えることなどできないし 私はあなたと理解し合うことも変えることもない。 私はあなたに対して永遠に他者である。すべての世界と すべての人たちは私の傍らを通りすぎていく。 それがこの世界のすべてだ。にもかかわらず私たちは 生きていく。でもどのように? どのような生を? 私たちは善く生きたいと望む。 たとえこの世界には希望も救済も本当の意味では存在しなくとも。 「それ以外に方法はないのだから」。 悪は遍在する。 悪は私や私の大切なひとびと(あるいは私が大切なひとだと錯覚しているひとびと)を惑わす。 しかし悪とは何か。それは本当に悪なのか。 その絶対的な根拠は何か。そんなものはありはしない。 それにしても私がここまで新井素子に縛られている理由は何なのだろう。 以前私が新井素子について力説した際軽く笑ってくれた人のことを思い出す。 その人も私にとっては届かない人だったようだ。 つけてしまったであろう傷は消すことができないしその痛みを分かち合うこともできない。 できることはただ幸せであるようにと祈ることと絶望を忘却せずに正面から向き合うことだけだ。
を書いていたら、千字くらい書いたところで書きかけの文章が ふっとんでしまったのでちょっと立ち直れません。 せっかく前向きな文章だったのにににに。
のない文章を書くのもたまにはいいかもしれません。疲れました。
ってやっぱり手に入らないんでしょうか。
ミステリ読みの方で、SFマガジン7月号の 特集「ぼくたちのリアル・フィクション」の小説 (特に元長氏の『デイドリーム、鳥のように』)を 読まれた方はいないんでしょうか。感想が聞きたいです。 ちなみに私は否定的です。ちょっとねえ。
Officeさんのところで内税化の話(No.#1427-7)。スレッドの最初の発言は ちょっと話がずれていると思いますが、(ローカルな)本質はリンク先のほうでしょう。
けっきょくのところ、何を残したいのか、残すためにどのくらい コストをかけられるのか、コストをかけにくいところは誰がコストを 負担するのか、誰も十分にコストを負担したがらないものをどうするべきかを 考えなくてはいけないんですよね。 それをさぼっていると「既得権にあぐらをかいてきたわけですな。」と 言われてしまいます。それがどれほど自分たちにとって大切なものでも。
表題は谷山浩子『王国』より。 翼ある鳥は翼をもぎとれ。 世界へと続く通路を閉ざせすべて。
に一昨日行ってきました。申し込むときに所属を書けと言われ、 会社名を書いてもしかたないので、 とりあえず「Ruby ホームページ Webmastersメンバー」とか 書いてしまったら、そのまま資料に書かれてちょっとびびってしまいました。 ちなみに私は @ruby-lang.orgのアドレスも @rubyist.net のアドレスも 持っておりません。
当日の記録については、経産省の澁川さん(だったはず)が とっていたログがいい感じにまとめられたものだったので、 それが出てくると幸せになれそうです。想像通り話題は発散しまくり だったので、ストリーミングが出ても全部聞くのは辛そう。
出てきた発言としては、経産省の村上さんのものが面白かったですね (OSS関連の方々の意見はあまり意外なものではないわけで)。 いわく、国防省がうらやましいとか、あるプロダクトが 不当に高いrentを取っていて、日本の企業がそれに従っている けれどそれはどうかとか、そういう現状に対して何もできないのははがゆいとか、 経産のターゲットは家電と組み込みで、コンピュータでやられたことと 同じことをこの分野でやれるわけにはいかないが、アメリカ流の パテント政策にのっかると絶対勝てない、そのためにOSS的手法が 突破口となるのではないかとか(かなり意訳)。 しかし家電そのものに興味のあるオープンソースなひとって それほど多くなさそうですが、盛り上げることはできるんでしょうか。
また、まつもとさんをプロジェクトXに!という声もありました。 それを聞いて、Rubyというオープンソースプロダクト (あるいはフリーソフトウェア)って外からどう見えるんだろう、 とも思いました。 そういうのって、どっぷり中に漬かってるとよく見えなくなるので。独自言語の処理系、 というのは一般的なアプリケーションとはだいぶ違うソフトウェアですよね。 って、それを言ったらOSとかWebサーバとかDBMSとかもあんまり ふつうのアプリケーションではありませんが。
討論が終わってから、風穴さんにPHPのmbfilter関連ライセンスの 話をうかがいました。テクニカルな解決策を練るよりもまずは 著作者を尊重することが重要、というのはたいせつですよね。 たいへん納得しました。
会場を出た後は、RHG読書会でもお世話になっている山下さんとごはん。 高い酒の話とか、日本でのプログラマという職業はどうかとか、 東京の西と東の文化の違いとか。教えてもらったお店には今度行ってみるつもりです。
谷山浩子系はやっぱりまわってるアンテナを使ってみたり。
淵瀬さんの日記より、 葛飾区郷土と天文の博物館にて、 特別企画『星と香りのプラネタリウム』。
うーん、7/12は 「PKI入門 - Ruby/OpenSSLを触りながら学ぶPKI」 があるんでしたっけ。まだ申し込んでないですけど。
ゆきさんのつれづれ日記より、 有機化学美術館の 喪われた化合物の名誉のために(1)〜DDT〜。
こうして抹殺されたDDTですが、最近の研究によって少なくともヒトに対しては発癌性がないことがわかっています。また環境残存性に関しても、普通の土壌では細菌によって2週間で消化され、海水中でも1ヶ月で9割が分解されることがわかっています。危険性を訴える研究に比べ、こうした結果は大きく扱われることはほとんどないため、あまり知られてはいませんが……。
スリランカでは1948年から62年までDDTの定期散布を行ない、それまで年間250万を数えたマラリア患者の数は31人にまで激減しました。この数はDDTが禁止されてから5年のうちに、もとの250万人まで逆戻りしています。DDTによって救われた人命の数は5千万とも1億ともいわれ、これは他のどんな化合物をも上回るものです。その得失を総合的に考えた場合、安価でこれほどに効果の高いDDTを完全に葬り去るのは果たして得策なのか疑問を差し挟む声もありますが(アメリカ科学・衛生協議会議長ウィーラン氏による)、おそらくDDTの名誉が回復される日は永遠にやってこないことでしょう。
ほんとにそうなんでしょうか? さすがに5千万とかは多すぎるのでは (でも年間250万が31人なんだから10倍すれば2500万、みたいな計算なんですかね)、とか、 「最近の研究」っていつごろなんだろう、とか。
東京都現代美術館で行われている 田中一光回顧展に行ってきました。
田中一光さんはデザインのえらいひとで、ポスターやブックデザインや それ以外も含めたアートディレクションで活躍された方です。 ……という知識はあった(というか、加藤さんに教わった)のですが、 実物をまとめてちゃんと見たのはこれが始めてでした。
彼の仕事の中は、ポスターではタイポグラフィでもよく知られていて、 そのためのコーナーができていました。 その中にあったモリサワのリュウミンのポスターなんかはもう笑ってしまう くらいにすばらしいもので、これだけを見るためだけでもぜひ。
会場の光景は こちらに一部載ってますが、このペットボトルはちょっといまいちでしたね。 意味的な効果を狙いすぎて、実際の見た目が美しくなくなって しまったような。
日本タイポグラフィ協会(NPO) の、 タイポグラフィの知的財産権について。いくつか文書があります。
創元推理倶楽部東京分科会(結局名称はどうするんでしたっけ?)の 飲み会に。 なぜ今野緒雪さんは百合的な振る舞いができない(ように見える)のに ひびき玲音さんは百合的な振る舞いができる(ように見える)のか、 などと熱く語ってきました。
ちなみに、某書店では金曜日に 竹岡葉月『ストロボの赤』が発売されていたので、 もうコバルトはみんな売ってると思っていたのですが、 どうやらそこのお店が早すぎたっぽいですね。すみません。
ちなみに7月のコバルトは、竹岡葉月さんや『マリみて』に加えて 倉世春・青木祐子・山本瑤さんのシリーズ新作も出るのでたいへんです。 青木祐子さんはパスするかも。
プロバイダを変更するので、明日からメールが読めなくなるかもしれません。 エラーメールが送られてしまったらすみません。
いや、いちおう予定では明日の夜には復帰しているはずなんですが、 先日のことを考えると余談を許さないかなあ、と。
ミステリ系更新されてますリンクに はてなの日記をどかどか加えたのですが、どうも「403 Forbidden」が 帰ってきてしまって時刻がわからないようです。どうしてなんでしょ。
読み終わりました。
フラクタル・チャイルドシリーズ第2作。今回はカイの知り合いの少年が 教祖をやっている新興宗教を巡るお話。 前作ではまだ明かされていなかった話なんかも少しずつ交え、 そろそろ「フラクタル・チャイルド」の言葉の意味もわかってくるかも、 という予感を匂わせてくれます。
これだけ伏せているネタをいろいろ仕込んでおくと、 それをきれいにたたむには時間がかかりそうなので、 ひょっとして長いシリーズにしたいのかもしれません。 それをするには世界構築がしっかりされていなさそうに見える (多層都市の物理構造とか、経済のしくみとかは あんまり詰めてなさそう)のが若干不安ではあります。とはいえ、 話やキャラクターの転がし方はだいぶこなれてきた感もありますし、 まずは期待したいところです。今回もいい話でしたしね。