_ 松井千尋『ハーツ ひとつだけうそがある』【 bk1 / ISIZE / 旭屋 / Jbook / BOL / 紀伊國屋 / amazon / eS! / 富士山 / 本屋さん 】を読む。
_ こ、これは……。
_ 一応ストーリーらしきものを説明しておくと。主人公、宮田輝幸は 高校生、のはずだが学校にはぜんぜん行かずバイトに励んでいた。 そんな折、バイト先のオーナーの息子、鹿島了から別口の「仕事」の話を 持ちかけられる。その「仕事」とは、了の弟で、輝幸の中学のころの友人 である鹿島周平のふりをして、周平の知り合いの女の子の恋人になれ、 というものだった。……というような話。わりとミステリっぽいですね。 伏線なんかもいろいろあるし。トリッキーな恋愛小説、というところか。
_ おすすめ、です。反則なくらいに。感想を書こうと思ったけど、実際、 書きかけたのだけれど、ネタバレになりそうなのでちょっと。
_ 竹岡葉月『東方ウィッチクラフト―螺旋舞踏―』 【 bk1 / ISIZE / 旭屋 / Jbook / BOL / 紀伊國屋 / amazon / eS! / 富士山 / 本屋さん 】も読んでまして、確かにこちらもいい感じに 楽しめたのですけれど、これはちょっと相手が悪すぎます。さすがの ウィッチクラフトもどしゃぶりの雨に立ちつくす莫迦な男には かなわないのです、たぶん。
_ これであとがきがもう少しおもしろければねえ、とも思ったり。
_ こちらについてはまた後で。
_ 深谷晶子『サンクチュアリ』【 bk1 / ISIZE / 旭屋 / Jbook / BOL / 紀伊國屋 / amazon / eS! / 富士山 / 本屋さん 】も読む。が、 やはり『ハーツ』の敵ではなかった。
_ 両者とも最後の方に手紙が出てくるのだが、その威力たるや、 あまりに差がありすぎてどうにもならない。というか、ちょっと 比較するのも悪いよなあ、というか。
_ sablot-0.5.2を リリース。ついでに ページも作った。
_ RAAの情報をSOAP越しに奪ってきて、RSS形式か独自XML形式で 出力する raa2xml.rbを アナウンスしようとしたら、メールの送信に失敗(;_;) どうしよう。
_ 会社に行って仕事。旅の準備は間に合うんだろうか。
_ そういえば蔓葉さんの日記(平成13年10月5日)からリンクされていた。 まさかここは日記に娯楽的工夫があるわけでも、書評が秀でている わけでもないから、「小説観系の情報が豊富」なのでしょう。 そうだったのか。
_ ……などと思っていたのだが、10月6日の内容を見て、実は 上のリンクは伏線で、「小説観系の情報が豊富」なんだから ミステリ評論についても何か書け、と言いたいんじゃないかと 思ってきた(<たぶん深読みのしすぎです)。というわけで 思いつくままに書いてみる。
_ そういえば、市川@錦通信さんって『知の欺瞞』【 bk1 / ISIZE / 旭屋 / Jbook / BOL / 紀伊國屋 / amazon / eS! / 富士山 / 本屋さん 】 は読まれてたんでしたっけ?
_ テロの後、小泉義之『弔いの哲学』【 bk1 / ISIZE / 旭屋 / Jbook / BOL / 紀伊國屋 / amazon / eS! / 富士山 / 本屋さん 】を何度か 読み返している。
〈生きることはよい〉。これがモラルの最低限の原則であり最高の 原則である。モラルはこれだけで十分に足りる。そして必要ならば、 ここから直ちに〈殺すことはない〉が出てくる。これら二つのことを、 ここでは戒律と呼んでおく。この戒律を、〈神すなわち自然〉が 定める〈掟〉と解してもよい。
戒律だけではとてもおぼつかないと感ずる人が多いだろうし、戒律 だけではやっていけないからこそ法律や倫理や各種制度が定められる と考える人が多いだろう。そのような人は過っているし、そのような 人こそが殺人を可能にする妄想をささえている。少しずつ考えていこう。
先に〈生きることはよい〉というモラルに触れておく。これは 自己の生存、自己の保存を肯定するホッブス的スピノザ的モデル である。これについては、幾つかのとんでもない誤解があるので 論じておきたい。
第一に、それを甘く見すぎるという誤解である。生きることは よいことだが、しかしそれを叫んでいるだけでは云々という 危惧である。それだけでは不足だと思うのは、たんなる生を 肯定することがどれほどの帰結をもたらすを考え抜いていない からである。生きることを肯定するとは、死ぬことや死なせる ことを肯定しないということである。だからたとえばアイヒマン にしても死なないほうがよかったのである。人間が一人 いなくなるよりは、いかなる悪人であれ人間が存在していた ほうがよいのである。カントは『人倫の形而上学』において、 死刑囚と死刑執行人の二人だけが残った場合でも、正義の ために死刑が実行されるべきであると書いてみせたが、それほどに カントは、世界には法廷と刑務所しかないという妄想に とらわれていた。では、死刑囚が一人だけ生き残ったとしたら、 どうであろうか。正義がおこなわれなかったのだから、世界から 一切の価値が消え去ったことになるのだろうか。死刑囚の 生に価値はないとでも言うのだろうか。もちろん、そう言っても かまわない。ただしそのとき価値という語は、適用の場所を 一切失う。もちろんそれでもかまわないが、おそらく誰も そんな地点で耐えることはできないはずだ。とすれば、 少なくとも価値は生に与えられるということから始めることになる。 先日、各国首脳が集まって飢餓対策国際会議を開催した。そこで 合意された目標は、何と飢餓人口の〈半減〉であった。半数は 死なせてもかまわないと合意したのだ。そんな目標を掲げる こと自体が罪科ではないのか。誰でも〈生きることはよい〉と 認めるが、大抵は口先だけだということの実例である。
_ ここに続く節では、「生命を賭けるに値するものなど一つも ないし、生命を失わせる理由など一つもないと言い切るべき なのだ。」という文もある。 テロルにも、テロルへの報復にも耐えうる、強い言葉だと思う。
_ というわけで、明日からフロリダとニューヨークに行ってきます。 とはいえ、連休は毎日出社だったし昨日は泊まり込みだったしで へろへろです。
_ この反応はすごくうれしかったです。なぜなら、私も いなばさんのサイトで 「まあ読んでくれ」と言われて 読んだくちですから(<別に私に言ったわけではありません)。
_ このサイトには小泉義之のインタビューの抜粋が載っていた。この 抜粋も、『弔いの哲学』を読みたくさせた要因のひとつだったはず。
「「他者と我々」という問題設定をする人は、国民や民族をユニットにしてしか思考していない。そんな思考法を捨てなければ、死者を弔うことにはならない。
たとえば先日、イスラエルとパレスチナで戦闘があって、パレスチナ人が何人死んで、イスラエル人が何人死んだという把握の仕方がされる。卑しい思考法です。直ちにやめるべきです。ぼくは、誰が死んだのか、誰が殺されたのか、そして誰が殺したのか、名前を知りたい。戦争の問題でも同じです。誰が死んだのかということだけが大事であって、誰が引き金をひいたのか、それを拒めなかったなら誰が強制したのかということにしか関心はない。何千とか何万とかの数字の問題ではないし、それを日本人とか中国人とかくくることが問題なのではない。従軍慰安婦をめぐっても、誰か特定の男たちとの関係の問題であって、まさにそこで決着をつけなければならない。
とにかく、死者の名前を思い起こさないような論争は、およそ無意味な無駄話にしか見えない。たしかに現状における国家的、政治的責任の取り方を考えると、国家や民族というユニットで考えることになるし、それ以外に救済の道はないように見える。一応、それならもっときちんとやれとしか言いようがないけれども、やはり腹をくくってそんな道は捨てなければならない。実際特定の人間が特定の人間によって殺されたということから出発し直すと、最初からアプリオリに国家や民族をユニットにする思考法はまったく欺瞞的であることがわかるし、そんな思考法こそが戦争を引き起こしているとわかってくる。そんな思想は捨ててもらわないと困る。捨ててもらわないと何も始まらない。」152-153頁
_ 圧倒される。全面的に肯定できるわけではないのだけれど。
_ 市川@錦通信さんの日記(10月9日)を読む。 がーん、ルサンチマンも知らないんですか?! ルサンチマンと言えば、 これに決まってるじゃない ですか :D