がーん、 ローティってポモのひとといっしょくたにされる(こともある)んですね! そういえばそんな話もあったような気もしますが、すっかり忘れてました。 ショックだ。
というわけで、Yatsuさんがいうところの「ポストモダニズム」は わりと広い意味を持つ言葉なのですね。
つまり、XPがポストモダニズムであるというのではなく、XPという思想のあり方がポストモダニズム的だといいたかったのです。さらにいうと、XPの実践者の思考がポストモダニズム的というより、XPの提唱者の思考がポストモダニズム的ということです。
うーん、なんとなく言いたい雰囲気は伝わってくるような気もしますが、 「Kent Beckはポストモダニズム的」というと、やっぱりなにかひっかかる ような気もします。
それと、 Pragmatic Programmersは、哲学としてのプラグマティズム よりは、単に英語のふつうの意味(?)でのプラグマティック(実用主義的?)なだけだと思います。はい(嘘かも)。
なぜか、 W. W. Royce, Managing the development of large software systems: concepts and techniques なんてのがWebに転がっているんですが、これってひょっとして 「著作権だんごムシ」(まるしー2002-2003 山形浩生『たかがバロウズ本。』より) ってやつだったりするんでしょうか。
この論文はいわゆる「ウォーターフォールモデル」の原典と言われているものです。 が、実はこの論文ですでにウォーターフォールモデルの弱点が指摘され、 その対策としてAgileにも似た解決法が提案されていたりします。
そういえばYatsuさんのBlogでも、
僕は最初の書き込みで、コンピュータの領域における思想が、あまりにもモダニズム的であったということを書きました。これは僕独自の意見ではなく、一般的にも見られる意見です。
という指摘がありました。これでいくとウォーターフォールモデルは 「モダニズム的」の典型例だと思われるかもしれません。しかし、それに対抗する 非モダニズム的な思考は、もともと欠落していたのではなく、 実は始めから存在していたのに、単に忘れられていただけなのかもしれません。
既報ですが、とうとうCobalt8月号から、 新井素子『ブラック・キャットIV チェックメイト』の連載がはじまります。
期待と不安でいっぱいです。
なお、表題はCobalt4月号の新井素子先生スペシャルインタビューでの素子さんの言葉です。
ついでに、ソフトウェアの世界におけるパターン言語の原典も紹介しておきましょう。 Kent BeckとWard Cunninghamによる Using Pattern Languages for Object-Oriented Programs です。
この論文で示されているのはGUIに関しての(未完の)パターン言語の一部です。
見ての通り、きわめてAlexanderのパターン言語に近い雰囲気ですね。 GoFのデザインパターンしか知らない人には異質に見えるでしょうけど、 もともとのAlexanderのパターン言語はまさしくこんな感じなのです (というか、正直もっと怪しい感じ)。この異質な手触りは 忘れないほうがいいんじゃないかという気もします。
Yatsuさんの 「XPとポストモダニズム 3」について。
まず、私がYatsuさんの意見を歪めて解釈してしまっているように見えた、 という点については、これは素直に謝るしかありません。すみません。 意図的に歪めてしまっているわけではないのです。 ただ、うまく解釈・理解できなかったところのうち、私が気になったところを 取り上げたため、余計にYatsuさんの考えとのずれが強調されてしまったところがあるかもしれません。
とはいえ、変な言い方かもしれませんが、Yatsuさんのこの文章は、 私にとってはうれしいものでした。率直な批判のほうが、考えが ストレートに出るだけわかりやすい、ということもありますし、 また、Yatsuさんの考えの違和を考えたおかげで、私の意見も より明瞭になってきた、ということもあります。 こういう、気持ちのよい批判は、わたしにとってはぜんぜん失礼なものではなく、 むしろ歓迎するべきものでしょう。 どうもありがとうございます。それに応えるべく、私も気合いを入れて書きます (というか、気合いを入れすぎて長く・遅くなってしまいました……申しわけない)。
まず、Yatsuさんからの問いに答える前に、私の考えていることから書いていきましょう。
世の中にはすでにいろいろなしくみがあります。そのようなしくみの ある部分は、「モダニズム」といわれているようです。モダニズムがなにか、 という話はとりあえずおいておきます(というか、正直私には ちゃんと示せなかったりします)。
しかしながら、そのようなしくみに対して何らかの違和感をおぼえる ひとたちがいます。彼らは、そのような違和感が表明したりします。 さらに、すでにあるしくみに対して、もう一つの別のしくみや しくみの後ろにある考え方を提示することもあります。
そのようなしくみや考え方は、大きく分けて二通りのものがあるように思います。
要するに、「もっとていねいに!」という方向性と、 「もっと簡単・シンプルに!」という方向性がある、ということです。
さて。ここまでくればだいぶ話が見えてきたと思うのですが、 「脱構築」とか「両義的な振る舞い」とかの用語を使う方は、 前者の方向性を持ったポストモダニズムと呼ばれるものでしょう。
ポストモダニズムには「難解」というイメージがありますが、 それは簡単に言い表すことができないものを、 なんとかして言い表そうとしているからだと思います。 いや、これはちょっと好意的な言い方で、『「知」の欺瞞』のように 単にわけがわからなくなってしまっているものもあるわけですが、 少なくともその動機の一部には、このような意図があると思います(思いたいです)。
一方で、後者の方向性としてすぐに思いつくのは、ソフトウェア開発におけるXPに 代表されるAgileなひとたちです。彼らのスタイルが、 XPは理想論だとかそんなことができる環境はほとんどないといった、 おなじみの反論は無視すると、少なくともうまくいけば非常に シンプルなものになることは言うまでもありません。うまくいけば、ですが (私は、それなりにうまくいくことも多いと感じています)。
ローティのプラグマティズムは、 ソフトウェア開発ではなく哲学や社会的な領域についてのものではありますが、 こちらに似た志向性を持っているもののように感じます。 厳密な設計ではなくテストによる設計でぜんぜんかまわない、とするXPは、 反基礎づけ主義でもぜんぜんかまわない、とするローティの立場に通じているようです。 あ、でも一応書いておくと、ローティの本でちゃんと読んだのは 『哲学と自然の鏡』くらいで、この話がでてから 『リベラル・ユートピアとしての希望』を読んだ程度なんで、 ローティ理解は結構いいかげんかも。すみません。
さて、上にあげた「既存のしくみ」に対する二つの批判は、 「モダニズム」に対する批判であると考えれば、どちらも 同じように「ポストモダニズム」である、ということができるかもしれません。 しかし、見ての通り、方向性としてはまったく正反対のものです。 正反対のもの二つを一つにまとめてしまうのは、どう考えても 紛らわしいでしょう。これはいい傾向ではありません。
Yatsuさんの文章にあった「いっしょくたにする」という言葉についての 質問の答えは、これに関係します。もっとも、わたしとしては 「いっしょくたにする」という言葉が「軽蔑的な言葉」というつもりは あまりありません。それよりも「違うもの同士をまとめている」、という粗雑さを あらわしているつもりです。私は、前者と後者をまとめるのは 少なくともこの文脈では粗雑にすぎると思っているのです。それは、 ローティがフーコーやデリダの影響を受けているということとは あまり関係がありません。ローティが、ハイデガーやサルトルやガダマーや ジェイムズやデューイやクーンやクワインやパトナムや ディヴィッドソンの影響を受けているのとあまり関係がない(らしい)のと同様に (ローティはフーコー・デリダを含めたここで挙げた人たちを、「相対主義者として激しい攻撃に さらされてきた」として列挙しています(ローティ『リベラル・ユートピアという希望』pp17))。
以上を踏まえた上でYatsuさんに尋ねてみたいことは、 YatsuさんがXP(のうちのある部分)とポストモダニズムとの間に関連をみるとき、 そのポストモダニズムはどういうことを意味しているのか、ということです。 正直、YatsuさんがXPとポストモダニズムとの関連について、 どの辺がどのように関連しているのか・いないのか、というのが、 はっきりわからないのです。Yatsuさんには、私がYatsuさんの 意見を歪めているように見えているようですが、私にとっては 私なりのYatsuさん理解が歪んでいるのかいないのかも判然とせず、 それでも「こんな感じかな?」とあたりをつけてみている (のだけれど、それにしては私の理解とは違いがありすぎるので なんかへんだな、と思っている)というところです。
もし、Yatsuさんが、「ポストモダニズム」という用語を 上にあげた二つの両方を含むものとして使っていて、 XPと関係があるのは後者の方のみで、前者は関係ないと考えているなら、 私もそれに賛同します。いや、「ポストモダニズム」という用語を そういう風に使うのはよろしくないと思っているのはすでに述べた通りですが、 そのような用法もあるので、それは仕方ないことでしょう。 少なくとも、対立はありません。
一方、YatsuさんがXPには後者だけではなく前者の傾向もある、といった 主張をするなら、私とは相容れない部分をもっている、 ということになりそうです。もしそうなら、その理由について もう少し詳しく教えてほしい、とも思います。
これまでYatsuさんの文章について私が書いてきたことは、 Yatsuさんや他の読み手のひとが何かを考えるときの参考になれば、という くらいの位置付けでした。そのため、読んでもらえるとうれしいと思っていたものの、 Yatsuさんから何かしら直接的な 反応があることはそれほど期待・重視していませんでした。 けれど、今回の文章はちょっと違います。これは、Yatsuさんに宛てて 私の考えを書いたもので、Yatsuさんとのやりとりを期待しているものです。 なので、Yatsuさんと同じ言葉を最後に書きます。
お返事をいただけたらうれしく思います。
先週金曜日は パターンワーキングセミナーに行ってきました。 非常に面白かったです。メモはたくさんとってきたので、 そのうちWebに載せるつもりです。
そして土曜日は、SFセミナーなひとたちと飲み会。二次会で 深夜+1に連れて行ってもらったのですが、そこで内藤陳さんから いろいろな話をうかがってきました。 SF大会の問題点の指摘などは非常に考えさせられます (というか、まさかそんな話が陳さんからご本人から聞けるとは。すごすぎる)。 団体というのはその会を率いる方の人となりが大切なのだなあ、 と思わされたひとときでした。
Yatsuさんの「XPとポストモダニズム 4」について。 お返事ありがとうございます。 相変わらず私のほうの応答が遅くてすみません。
うーん、確かに、ポストモダニズムの解釈の違いはありそうです。
「ここでの単純さ、複雑さとは、思想自体の外見上のことなのか、対象の捉え方なのか」という問いですが、私としては対象の捉え方、というか、価値基準のようなつもりでした。 さらに、私の意見に対して、「結局はどの思想も、適切な単純化のレベルを目指しているにすぎないと僕は考えています。」という評価は、正直なところ、私としてもある程度は同意せざるをえません(<弱い)。
また、ソシュールの言語学を「単純化」の例として挙げられていますが、 私としては構造主義言語学はあんまり単純には感じられなくて……。どちらかというと、 チョムスキーのような原理とパラメタによるアプローチ (人間の言語運用能力は、あらかじめ先天的に決まっている固定部分(=原理)と、 他人の発話をうけ、後天的に学習される部分(=パラメタ)にわかれる、 実はパラメタ部分はそんなに大きくないからほとんどの人間は あんなにさくさく言語を習得できる、というようなモデル)などのほうが、 単純・素朴でモダニズム的な感じがします。 とはいうものの、一方で生成文法は難しい、という評価もあるわけで、単純・複雑という のはやっぱり主観的な面が多い、ということなのかもしれません。 ああっと、「最近のテクスト論批判」はよく知りません(無知ですみません……)。
さらに、XPの理解自体はそんなに違っていないようなんですが、 その評価については、意外に違いがあるかもしれません。これについてはまたあとで。 いやはやほんとに書くのが遅くて申し訳ない(_o_)
「四十二だと!」ルーンクォールが叫んだ。 「七百五十万年かけて、それだけか?」
(ダグラス・アダムス『銀河ヒッチハイク・ガイド』より)
じゃなくって。
まつもとさんの日記より。
個々の開発者が共感し実践している思想抜きでオープンソースが存在できるかといえば、ほとんどのケースで「否」なのではないだろうか。
という意見には共感するのですが、なんとなく私が共感している思想は、 「自由」というより、「ひとにやさしく」といったような「思想」(?)の ような気もします。
ひとにやさしく、という信念を持つことは、 搾取の対象になるということでしょうか? 度を過ぎるとそうでしょう。 でも、ひとにやさしく、という思想を広めるには、 ひとにやさしくすることが何よりですし、 『それ以外に方法はない』のかもしれません。
それと、「ソフトウェアを開発すること」と、 「ソフトウェアに特定のライセンスをつけて公開すること」とは別のことで、 「自由」にかかわるのは前者ではなく後者なのではないか、とも思いました。 フリーなライセンスのソフトウェアは、もともとフリーで公開するために 開発されたとは限らないのですし。 いや、まつもとさんのように、フリーなライセンスで公開されたソフトウェアを さらに開発しつづける場合は、開発自体が「自由」と関わりつづけるわけですが。
塚本晋也さんの新作、『六月の蛇』を観ました。
話だけ聞くとえろえろな感じですが、実際の作品は、 なんとも切なく、悲しみと痛みに満ちたものに仕上がっていました。 スタイルにこだわった画面構成やブルーな色調も、 抑制された物語にうまく寄り添っています。 救いのあるラストも成功しているでしょう。
ついでに小説も読みました。
小説としての出来は、えーと、その、そんなには悪くはないのですが、 それよりも映画との比較によって楽しめる作品だと言えましょう。 男と夫のシーンの違いには驚かされました。 あと、少年と少女のシーンの説明とか。
「ばいおてくのろじーを駆使して、ニンゲンやドウブツを改造して 仮面ライダーとかムーミンとかををがんがんつくるのはたのしそーです。 ニンゲンと交雑できるニンゲンじゃない生物とかもいっぱいできちゃったりすると ステキですよね☆ てつがくてきにもぜんぜんおっけー。ばんばんつくりましょう!」
という本、なんでしょうか。bk1には早くも稲葉振一郎さんのコメントが 載ってます。
内容的には、のださんなどに読んでもらって感想が聞いてみたいところ。 木村資生さんの優生思想に対する反論もありますよん(というか小泉さんの立場では 優生なんてもったいないことは基本的にステなので当然)。