うーん、なんかやのの求めているものへの回答ではないような気がしますし、 「原則として字体は変えるな」には同意しているわけではありますが、 反応してみます。
整理しておくと、83JIS(JIS X 0208:1997解説の言うところの『第2次規格』) では、以下の4点について変更が行われたとされています。
1番目と2番目はまあ問題ないですよね。3番目について、これは、 行うべきではない「非互換な変更」だったと私も思います。
で。問題は4番目で、私が言ってたのはこいつなんですが……これって、 単純なJIS内部での「適合性」として問題ないわけですよね? いやまあおかげで包摂規準がぐちゃぐちゃになってしまったわけですけれど。 でも、もし最初からJISが簡略字体を印刷標準字体として使っていれば、 つまり83JISで言うところの「涜」を「ボウトク(冒涜)」のトクとして使え、と 言い張るようなことをしていたなら、 これとは別に「賣」をつくりに使った文字に別の区点を 割り当てることはまさに「適合性」の規準である包摂規準を変更することに なってしまうわけですし。
また、公開レビューも再読してみましたが、 代表字体については「国語審議会にお任せする」と言っていることから、 国語審議会が包摂される字体群に対し、その代表字体を決めたら、 JISでもそれに従うのはやぶさかでない、というようにも読めます。
というわけで、「適合性」というのは、あまりいい論点じゃないと思います。 また、私の考えていたことは、 「間違った適合性の規準がすでにたてられてしまっている時に、どう対処するのがベターか」、 と言うべきなのかもしれません。
うーん、やっぱり求められているものではないような気がする……申し訳ない。
えー、煽るだけ煽っておいてなんですが、実はまだ観てません(汗 観たいとは思っているのですが、 混んでるところではあんまり観たくないかも<わがまま
最近読んだコバルト。
『放課後戦役』は、……うーん、ちょっと物足りないかな。 「敵」にしろ高等生徒隊にしろ、自衛隊が出てこないことにしろ、 なんか無理がありすぎのよう。最後もちょっとなあ、という ところでしたし。
でも、「ちゃんと書く・書いてる」という気持ちは伝わってくるので、 コバルトに向いてるかどうかはさておき、頑張ってください、 と言いたいところではあります。
『レイニーブルー』は、……うーん、ここで終わられても。 ま、『ロザリオの滴』と『黄薔薇注意報』はそつなく楽しめ ました。さすがですねえ。
ただ、同じ場面を違う立場から描いているところが あるのですが、これはさほど効果的ではありませんでした。 この手法って、単に「あのときこの人はこうだった」という のを書くだけでは面白くありません。 別の視点を知ることによって、 すでに書かれた場面の意味づけが変化する、というのが ベストだと思うのです。で、この作品ではそこまでは行ってないように 思いました。
『東方ウィッチクラフト』は、新キャラ登場でなかなか良い展開です。 ラストもいい感じ。 でも、園生については決着がついてないような気がするんですけど。 はたして再登場するでしょうか?
この先はどうするんでしょうね。対立の構図は用意されるんでしょうか。 宇卵は本当の「敵」にはならないのは明らかですし、もうちょっと 魔女側の事情を少しずつ出しつつ、キャラを動かしてくことに なるんでしょうか。
そういえば一子って全然成長してないような。けっきょく、 この話は柾季の成長譚で、一子は語り手なんでしょうかね。 ミステリで言うなら矢吹駆ものでのナディアの位置、というか。
uniqが効かないということですが、 uniqしようとした配列に含まれている要素はどんなオブジェクトですか? ハッシュオブジェクトとか自前クラスのオブジェクトだと、 内容が同じでも(同じなように見えても) うまくuniqされない場合があります。
現在のRubyでは、Array#uniqは、いったん配列の各要素をキーにした ハッシュを作って、そのキーをもう一回配列に戻す、というやり方を しています。Rubyで書くとこんな感じでしょうか(テストはしてません)。
class Array
def uniq(ary)
h = Hash.new()
ary.each{|elem|
h[elem] = true
}
return h.keys
end
end
配列に含まれていた「同じ」要素は、同じキーになるので、h.keysでは 一つにまとめられるわけです。 が、ハッシュでは、「値」が同じIDが違う場合は同じキーと見なさないことがあるのです。
この辺の事情は、『たのしいRuby』なら p.243「ハッシュのキーについて」に書いてあります :-) p.64『オブジェクトの同一性』も参考になるかと思います。
XMLの実装と開発に関する議論をする総本山のML、 xml-dev MLでの最近の話題は、
……こういうのを延々々々と議論できるのは、ある意味素晴らしいかもしれません。
U-kiさんによる役に立たないテレビ・ビデオ買い換え講座第一回(02/04/21)。
ま、「テレビ」なんていう代物は20世紀に置いてきたのでよく知らないし 買う予定もないんですが :-)、 リムーバブルなカートリッジみたいなものを使って、そいつを 入れ替えればOS更新、とかいうことはできないんでしょうかね、 やっぱり。
それよりもなによりも、地上波デジタルが本当はいつからにできるのか (2005年の移行はたぶん無理という話もあったような)、 とかいう話の方が面白そうです :-)
少し前、一部の読書系サイトで、馳星周さんの 「おれたちは絶滅するか?」というページが話題になった ことがありました。私もそのページを読み、図書館や新古書店に ついて、それなりに思うところも あったのですが、それはここでは置いておきましょう。
私が気になったのは、このページにある一言でした。といっても、本題とは あまり関係のない文です。しかも、カッコの中の。
今の日本で本来の意味でベストセラー作家なのは宮部みゆきだけだ
確かに、宮部みゆきさんの本はとても売れている、という話を 聞きます。書店には宮部さんの新刊が出るたび、平積みの高い山ができます。
また、宮部さんの場合、読者層がとても広そうです。 ジャンルで分けるとするならば、彼女の作品は「ミステリ」「SF」または 「時代小説」に括られるものがほとんどではないかと思いますが、 ジャンル読者以外の読者からも、幅広く支持されているようです。 しかも、ジャンル内の目の肥えた読者からも、決して悪くはない、という よりもとても良い評価を受けています。老若男女、 多くの人から愛されるという意味で、まさに「ベストセラー作家」という 言葉にふさわしい作家と言えるでしょう。
そこで、ふと思ったことがあります。 ――どうしてみんな宮部みゆきのように書かないのだろうか、と。
もちろん、誰それのような小説を書く、ということは、様々な困難を 伴うでしょう。しかしそれは、目標とするのが誰なのか、に大きく 依存します。宮部さんの場合、その障壁は、比較的高くはないのでは ないでしょうか。
もちろん、それは「容易だ」と言いたいわけではありません。 誰でも彼女のように小説が書けるなら苦労はありません。 ただ、彼女の創作技術のそれなりの部分は学習可能なのではないか、ということです。
作家によっては、「題材」「個性」といった要素に大きく寄りかかる 方がいます。そのような作家の創作技術を「学習」するのは非常に難しいでしょう。 例えば、京極夏彦のように、あるいは高村薫のように書く、というのは、 なかなか余人には真似のできないものではないでしょうか。
宮部さんの作品の場合、そのような特定の題材に依存しているわけでは ありませんし、また、作家の個性を全面に押し出す、ということもありません。
(内容としては続くのですが、続きを書くかどうかは不明……)
昨日書いた宮部さんの創作の話ですが、 まずは意外なところ(雑感 4月25日(木))からリンクが(汗;
作品・作風を真似る、というのではなく、その技術的・技巧的な ところを学習可能な形に落とし込むことはできないかなあ、ということ なのです(だから「技術」としての宮部みゆき、なのです)。 なので、作品の傾向としては全く違ったものになるかもしれません。 それはそれで構わない。というか、むしろそうあるべきでしょう。
この話を以前、とある方にしたところ、 宮部さんの作品はいかにも創作教室で創作を学ばれた 非常に出来のいい生徒さんの印象がある、 といったことを言われました。 創作教室というのは、まさに学習可能な創作技術を教える ところのはずですから(実際はどうなのかよく知りませんけど)、 それは私の持った印象と何かしら重なるところがあったのでしょう。
さらに、米田さん(02/04/26)から「一度ご自分でやってみては?」との指摘が。 いやー、やってみるかどうかはともかく、やるための準備というか、 細かい分析くらいはやるべきかという気持ちにはなっています。 ただ、宮部さんは「なにを書くか」よりも「どう書くか」なのだそうです (どれかの文庫の解説で評者が引用していた)が、 私の場合は、小説であれなんであれ、書きたいものがまずあってそれを 書くがために頑張る、というタイプです。そのため、 「どう書くか」に重きを置くのは、かなり難しい課題なのです。 ただ、「どう書くか」は「なにを書くか」はある程度独立なので、 自分の書きたいことを、書く上での趣向も加味して書くという ことも、ひょっとすると可能かもしれないんじゃないかと思うのです。
……一応つけ加えておくと、「個性がない」とは書いてないですよ。 「題材」や「個性」に大きく寄りかかってはいない、と書いたのでした。 助田さんの言葉を借りるなら「アクが強くない」という言葉に近いでしょう。