で、『言語哲学大全』の代わり(?)に、この本を買ったのでした。
まだ途中なんですが、めちゃくちゃ面白いです。超重要。
この本は特に後半の内容により、生命倫理方面、具体的には 代理母とか臓器移植とかの文脈で読まれることが多いかと思います。 けれど、 「『私のもの』とは何か」 「『私の作り出したものは私のもの』という考え方の根拠は何か」 「そのような考え方は正しいことなのか」という 非常に根源的なところから考察をはじめるこの本は、 もっとさまざまな場面で威力を発揮するはずです。
たとえば、フリーソフトウェア・オープンソースの世界で。 私の書いたコードが私に帰属することになっているのはなぜでしょうか。 それは正しいことなのでしょうか。なぜ、私の書いたコードを私の制御下に おかないために適用されるフリーなライセンスというものがあり、 そのようなライセンスの元でコードを公開したりするのでしょうか。 もっと細かいことを言うなら、なぜ、GPLではなくBSDライセンスや Artistic Licenseのような緩いライセンスを選ぶひとがいるのでしょうか。 GPLの偉大さには文句もないにせよ、強固に作者の意思を 利用者にも反映させようとする力に、なにかしら 息苦しいものを感じたりする人がいるのはなぜでしょうか。 この本は、そういったことについて考えるためにも欠かせない本のようです (途中なので読み進めると気が変わるかもしれませんが)。
『ノウアスフィアの開墾』の作者であるESRがばりばりのリバタリアンであるのは よく知られているところ(のはず)です。それは『ノウアスフィアの開墾』にも 反映されており、この文書ではロックの所有論が全てのベースとなっています。 つまり、『わたしの書いたコードはわたしのもの』という思考が 全編を通して暗黙のうちに肯定されています。
これに対し、もっとゆるい立場からオープンソースに関わりたい、という 人々が、少なからずいます。彼らは評判ゲームにさほどかかわろうとはしません。 たとえば、自分の行った創作物に対して、必ずしも自身の名を残そうとはしません。 まつもとさんは過去に「do-not-sue-me license」(私を訴えるな、とだけ 書かれたライセンス)を理想的なライセンスだと 語っていました。また、RubyのマニュアルはRWiki上で行われた、名前のまったく 残らない貢献が山ほどあります。
この本は、ESRのような立場から行われるオープンソースの理論武装とは違う、 もう一つの在り方を垣間見させてくれるような予感に溢れています。 私たちは、コードを書くことによって名声・評判を望んでいるだけではなく、 私たちの書いたコードが私たちの自由にならない使われ方をすることをも 望んでいるのではないでしょうか?
ていうか、今までフリーソフトウェア・オープンソースの文脈でこの本が 語られたことはなかったんでしょうかね? それはそれでまずいような。
っぽいものにそれなりの金額を突っ込んでいるらしい知り合い(と 言っても私ではなくのぞみが親しくしてた人なのですが) がいるのですが、どうするのがいいんでしょうかね。
上記サイトによれば、 「最近はエンロールなしのセミナーもあるらしい。 」ということなので、 以前とは状況が違うのかもしれません。
それにしても……。あ、いや、でもやっぱり思い悩んでしまうことというのはあるわけで。 個人をとりまく事情もさまざまですし。 立ち入りにくい領域です。
その一方で、自分のことを考えてみると。辛いときにイベントに誘ってくれたり、 根掘り葉掘り聞き出して酒の肴にしてくれたり、 朝まで延々他愛ない話や他愛なくない話に付き合ってくれたりする人が 近くにいてくれたことは、ある意味たまたま幸運だった、とも言えるのでしょう。 感謝しています。
ROSFのサイトが面白いです。 AMI関連で知っている人もいるかもしれません。
活動の紹介としては、 はじめにや 概略などが ありますが、それよりも(主幹の方の?)考え方の方が興味深いかも。 そちらは コラムが 参考になります。
例えば、 児童ポルノ禁止法案に関する雑文1の中にある、 「生産主義」に対する批判のところとか。
生産主義とは「作ることは良いこと」だ、「作れる能力のある人間は優れた人だ」という価値観です。そして、その背景には「作ったものには価値がなければならない」という暗黙の了解が潜んでいます。
(「2月23日 大激怒・sideB」より。以下も同様)
そして「生産主義に陥っている人の例」みたいなのが書かれています。元は 漫画を題材にしているんですが、明日は(もう今日ですが)DASACONなので、 ここではSFに置き換えてみましょう。
貴方が他人に対して何かを語ることが出来るのは、SFを読みあさっていたからです。
貴方に友達が出来たのは、同じSF作家のファンがいたからです。
貴方が周囲からちやほやされるのは、面白いSFの話ができるからです。
もちろん、ミステリ読みな人は「ミステリ」に置き換えてみるといいでしょう。
そして、このような「作ることに、あるいは作られた物に価値があると信じ切ってしまうことで、その制作能力や生産物に依存し、自分で自分を漫画なしでは無価値な存在だと認識してしまうようになる」生産主義を否定し、ひとが生きているそのことの価値を打ち出します。 以下、また漫画をSFに置き換えます。
SFやミステリというジャンルに価値があるのは、それを作っている人間や支持している人間が少なからず存在しているからです。つまり、SFやミステリを愛してやまない貴方達がいるからこそ、それらのジャンルには価値があるのです。
決して、そう決してSFやミステリというジャンルに価値があるから、そこに参加しているあなた方にも価値があるわけではないのです。
(略)SF作品やSFというジャンルそのものには、何の価値もありません。本当に価値があるのは、そうしたジャンルや作品を支持し、愛好しているあなた方自身なのです。
そのことだけは、絶対に忘れないでください。たとえSFというジャンルが無かったとしても、貴方の価値はいささかも減じるものではありません。
正直な話、わたしも生産主義的な考え方に片手片足くらいは染まっているような気もします。 上のような文章を読んでも、なるほどとは思いますが、だからといって 生産物や製作能力に対する思い入れが払拭できるわけではないですし。
最後ですが、 グリーントライアングル(実在する児童の人権を保護する人々のシンボル) にもリンクをはっておきます。
……うーん、赤の大文字はやっぱりどぎついかも。あとでフォントの大きさを 変更するかもしれません。