_ ひみつ文書を書かなければいけないのだったが、つい脱線してしまう。 というわけで、 RFC862: Echo Protocol の訳(汗;
_ 神戸あかりさんの日記 を読む。「おしまいの日。」について。
_ うーん、「故意にゆがめてる」ですか。それはもちろんそうですが、 それが結果としてよい方に歪められたか、悪く歪められたか、ですよね。 以下色変更。
_ 例のシーンの台詞、シナリオによれば、
「良かったね春さん、やればできるじゃない。春さんは、独りでも、 何でもできるのよ」
_ となってます。なのでその通りでしょう。
_ 「ただの毒電波おばさん」については……「表面上狂ったふりをして 日記をかいていた」三津子も、やっぱり「正常」ではなく十分狂って いるように見られやすいと思うんですけど……。実際、原作の三津子は、 自分のお腹にいるのは白い虫だって考えている(時もある)んですから。 ここは映画化するところが難しいと思っていたので、まあ こういう逃げ方も仕方ないかな……とお茶を濁し気味の感想を 書いてみたり。
_ んで、「女はやっぱり弱いもの」という解釈はかなり違うような 気がします。本当に「弱いもの」なら春さんを捨ててもう一人の 春さんと生きる、という選択肢はなかったと思う。捨てる強さ、 捨てる勇気(<PSY'Sだ。なつかしい……。)というのもあるんじゃないかと。 逆に、逃げ出すことができなかった忠春は、逆に「弱かった」んじゃ ないでしょうか。だから死んでしまった、と。
_ うーん、いろいろ書いても、やっぱり全面的に肯定することは できないんだよなあ……。UFOを見たり、入院したり、電波で 通じあったり(汗; するようなところは、やっぱりちょっと ずれている感じがする。水泳のシーンがかなり際どいところで 成功している(ように見える)ので、「二人の世界」がかろうじて 成立しているというか、なんとか着地しているんだけど、 全体の違和感を払拭できるかどうかというと悩んでしまう。
_ ちなみに「シナリオ」に書かれている君塚監督の言葉によれば、 新井素子は三津子があの後どうなるかについて、死んで いるのかもしれないと言っていたそうだ。そうなのか……。
_ を観る。
_ 「うまさ」と「良さ」と「面白さ」がどれもいい感じで 出ているという、幸せな作品だった。
_ そうです(汗; まさかメール本文まで引用されるとわ思わなかったのですが。ががが。
_ # ちなみにアンカーにUS-ASCII以外を使うのは推奨できなかったりします(汗;;
_ RFC862: daytime Protocol の訳(汗;
_ あー、置き場所はそのうち変える予定です。余力があれば、日本語RFC とかそれに準ずるような文書を管理する仕組みをでっち上げたいのですが。
_ たろうさん からリンクが張られているのでとりあえず書いておく。
_ 私が評価していると言ったのは「オルタカルチャー」の[こ-008]だ。が、 別にテクスチュアルほげほげな物言いに対してではないし、現在山形さんが 係争中の相手の方とも、実のところあまり関係なかったりする。
_ そもそもあの文章は特定の人物に向けてのみ書かれたものではなかった(はずだ)。 ちょっと引用してみる。
これは『ユリイカ』とか『現代思想』とかに巣くう「評論家」とか 「知識人」とか、気取った小難しい文を書き散らすだけのニューアカ くずれの理屈輸入屋すべてに言えること。(p.121)
_ そしてそれが事実かどうかは、実際の指摘を読めば納得できる。わたしは 「ニューアカ」はあんまり知らないのだが、「気取った小難しい文」には 思い当たる節がある。具体的には「ユリイカ」99年12月号の斉藤環や湯川薫の 文章とか。私はあれが大嫌いなのだ。一応弁解しておくと、 優れているかいないかとか、上手いか下手かという意味ではない(湯川は 上手くもないと思う。ていうか、実は湯川は似非アカデミズムともちょっと 違うのだが)。好きか嫌いか、である。私は大嫌いなのだ。
_ さらに(一部伏せ字にして)引用してみる。
○○を論じたっていいんだ。△△でも別にいいや。でも、くだんないのが そのやり方なのよ。△△が○○にあることを指摘したってダメなの。それが ○○を通じて、現実にどのようなインパクトを与えてるのかを示さないと。 またもや具体的に言えばだね、価値があるとすれば、その「△△」とやらを どう料理することによって大衆的な人気が生じているのか、という部分の 分析なわけ。それをどうすれば移植できるのか、というのを分析しなきゃ。 これは現実的に価値と力を持つ分析になる。経済的にも社会的にも。
_ 実際には○○には特定の作品名、△△にはある名詞が入っていたのだが、 これも限定する必要はない。例えばミステリ読みなら、○○を 「本格ミステリ」に、△△を「ゲーデル的問題」に 置き換えたっていい (*1)。 または○○を「メタ密室」に、△△を「スーパーフラット」に置き換えても いいのかも。ほとんど何の齟齬もなく意味が通じてしまうような気がする (*2)。 それくらいに射程の長い批判だったと思う。
_ それにしてもこれくらい親切な批判というのはそうそうないと思う。 「気取った小難しい文」を批判する人は少なくないはずだが、「では どうすればよいか」まで踏み込んでアドバイスする、などという批判は 滅多に読めるものではない。せいぜいが「誰にでも分かりやすい言葉で」 と言いながら、「でもそれって難しいよね」とややあきらめ気味に語る 程度だろうか。しかし分かりにくい言葉で語らざるをえないことも ある。それは悪いことではない。批判されるべきは「小難しさ」ではなく、 小難しい文章の「意味のなさ」「内容のなさ」の方だ。
_ [こ-008]が日の目を見ないことになってしまったのはほんとうに、 ほんとうに惜しいことだと思う。 もっとも要らぬことを書いたのが原因なので、 山形さんの書き手としての戦術ミスのせいだったわけではあるのだが。
_ ……と、まるで山形さん擁護のようなことを書いてしまったが、実は 「新教養主義宣言」はいまいち楽しめなかったのでした。これについては また後日。
_ # ところで「新教養主義宣言」はそっちで手に入るの?>のぞみ
_ 例のものは無事に届いたんでしょうか。ていうかフランで言われても いくらなのやら分からなかったり(汗;
_ 今、季節は冬であるらしい。が、かつて私の住んでいた街・札幌では、 冬は雪が積もっている季節を指す。けれどこの街は2月になっても 雪がまともに積もらない。だから、私にとっては今はまだ 秋か、せいぜい初冬である。この街は季節の壊れた街だ。
_ 東京というのはフィクションの中の街だった。要するに東京という 街は、小説の中で描かれていた架空の街のようなものだったのだ。 何せ「日本のフィクションの工場出荷時の“既定値”」なのだから。 一種のシェアードワールドのようなものだ。
_ フィクションに描かれた、自分の住んでいる街とはどこか似ているが、 どこか違う街。その微妙な違いの匙加減は、 フィクションの中の想像物の偽物っぽさに通じるところがある。 わたしは林譲治さんとは違い、自分の住んでいる世界に完璧にリアリティを 体感していたので、フィクションやノンフィクションで描かれている 「まがいものの日本」というのは、創作物の限界だと思っていた。が、 どうやら違うらしい。
_ 東京に暮らしてしばらくたつ。確かにフィクションに描かれいてる 街は、この東京にそっくりである。しかし、それはフィクションの リアリティを増やす方向には作用せず、逆にこの世界のリアリティを 減少させている方向に作用している。この街にはあまりリアリティを 感じない。
_ 今、わたしはフィクションの中に住んでいる。
_ を観に行く。
_ これは某大推理研OBの企画。「なんでそんな映画を」と思われるかもしれないが、 この面子で行くのは原則「そんな映画」と決まっている。 「そんな映画」じゃない映画は各自勝手に行くからだ。
_ 感想は……何も語りたくなくなってしまうほどの映画だった。
_ 映画や本、ゲームといったものは、それを楽しむのにコストがかかる。 そしてその作品総数は莫大なものになる。 有限の時間と金銭と気力しか持ち合わせていない人間にとっては、あらゆる作品を 片端から試すわけにはいかない。それならできるだけ楽しめるものを 選びたい。が、それを試すにもコストがかかる。たいていは 全部読んだり観たりやったりしなければ本当に楽しめるかどうかが 分からなかったりする。
_ というわけで、そういった選択の参考になるツールとして、 書評(あるいは映画評やゲーム評)が必要とされる。
_ また、ここから書評に求められる形式と機能が規定される(ここからは 本に限定)。 その本に何が書かれていて、どんな特徴があって、どういう人に 向いていてどういう人には向いてないか。そういったことが 書評の読者に伝わればよい。 さらにその書評自体が読んで面白いものであればなおよい。 このような条件を満たしたものが、「良い書評」だろう。
_ さて、本について述べられるもので、これらとは全く別の種類の文章がある。 それは「その本をどう読むともっと面白いか」を書いたものだ。 対象作品について、注目するに足る点はどの辺にあるのか。 それは他の作品ではどのように書かれてきたものであるのか。 先行する作品群からはどんな影響を受けているのか、あるいは受けてないのか。 そしてまた隠されたポイントとは何か。また作者自身でさえ気づいていないような ところで、着目すると作品の面白味が倍増するような点はなにか。そういった 事柄について微に入り細を穿つ(あるいはあっさりと、しかし確実に 指摘する)類の文章だ。
_ 書評が基本的に未読のひとに対して書かれている一方、後者は 既読のひとに対して書かれている。下手をすると内容にずかずか踏み込んで しまうため、未読のひとにとっては楽しみを奪われることになりかねない 場合だってある。しかし、既読のひとにとっては、こういった文章こそが 求められているようにも思う。
_ おそらく、この後者のものが「評論」と呼ばれるべきものだ。
_ ……というのが、「評論とは何か」「書評とは何か」 「良い書評とは?」についての、私の基本的見解だったりします> 楽志さん
_ 小説や評論などの創作物について、その価値は売れた数よりも、言及されたり 参照されたり影響を与えたりする事の多寡で判断するべきでは、と 言ったのは笠井潔だっただろうか。その線で言えば、Webページの価値は、 他のWebページからリンクされたり言及されたりする事の多寡によって 判断すべきなのかもしれない。ということは、一部から反発を買いながらも 言及されてしまう森博嗣や「こだまのあとだま」の方などは、かなり価値が あるのかもしれない。もっとも、「こだまのあとだま」の方と比べると、 さすがの森さんもWeb的にはまだまだ小物、という気がしないでもないのだが。
_ この前地下鉄に乗っていたとき、後ろにいた高校生らしい少年が こう語っていた。
「やっぱりSFは原点にかえらなきゃだめなんだよ。 『スター・ウォーズ』とか。泣かせだよね」
_ ……そうだったのか。って、『スター・ウォーズ』は「泣かせ」なのか?
_ 森さんの書いていることは「奇っ怪なこと」なことだとはあまり思いません。 どちらかというと、奇っ怪さよりも「挑発的」または「偉そう」なところが 反発を招いているのでは(*1)。そして、偉そうな文章でも面白くなければ あまり言及されないのは、楽志さんの書いている通り。
_ さて。
_ 創作物の価値にもいくつか種類があると考えた方がいいだろう。 いろいろな軸があるだろうが、 ここでは「短期的な価値」と「長期的な価値」とに分けてみる。 なお、ここでの価値の判断は、小説なり評論なり日記なり、とにかく 何らかの形での表現に影響を与えることによって計ることにする。 これと全く異なる基準として、人の心にどれだけ作用したか、で 計ることも考えられるが、そういうのは検証が困難しづらい。 また、人の心に残るものがあれば、評論などはもちろん、創作にも影響を 与えるだろう、と思われるためである。
_ Webページの場合、短期的な価値は、別サイトですぐに引用されるかどうかで 判断できる。また、その話題が続けば、孫引き、曾孫引きされて、 そこから元のリンクをたどる、といったこともあるだろう。そんな風にして 影響を伝播させたものが、価値のあるもの、と言えるものかもしれない。
_ そしてこれとは別に、長期的な価値がある。笠井潔が(確か「電脳売文党宣言」で) 書いていた(あるいは重きを置いていた)のは、こちらの方だったと思う。 つまり、そのページが書かれてからある程度、おそらく年単位で時間をおいても、 そのページに対する言及があるかどうか。それによって価値が決まる。
_ しかし、Webにとって年単位という時間はまだ長すぎるかもしれない。 Webページのサイクルは早い。コンテンツそのものがあっという間に なくなってしまったりする。そして、消えたものは当時の関係者以外には なかなか伝わらない。日記リンクス6・30事件ですら一部では忘れられているらしい、 という話には驚かされた(当時の私は単なる不真面目な読者でした)。
_ ともあれ、森さんのページがどのような価値を持つのかは 今後の歴史の判断に委ねられている、としか言えない (ここがこの指標のずるいところでもある)。
_ 一方、本については、言及されたり作品に反映されるサイクルが長い上に、 今までの蓄積もあるので、年単位以上のスケールで考えられるべきものだろう。
_ 「コズミック」については、発売後しばらくはこの本の話題で持ちきり だった(少なくとも一部ミステリ読みの間では)。 その経緯の中で、本格ミステリについての思想信条などを再考させられたり する機会を提供した、という意味では、発表後数年間は確実に価値があったと思う。 が、10年、20年たっても語られるかどうかはちょっと怪しいのでは。最近の 新作の話題はあまり聞かれなくなったし(少なくとも私の周囲では)。だから、 「コズミック」の長期的な価値も、今のままでは怪しいような気がするが、 どうなるのかはまだ分からない(やっぱりこの指標はずるすぎるような気がする……)。
_ 清涼院流水と評論家で思い出したが、清涼飲料水評論家(汗; で、 「GON!」の連載を持っている清水りょうこのコラムは面白い。 彼女のコーナーでは、メジャーな飲み物からマイナーな飲み物まで、 実感のこもった簡潔なコメントをつけている(スペースの都合上 簡潔にしか書けないのだが)。そのコメントから、 本数として日常的に清涼飲料水を飲んでいる であろうことがよく伝わってくる。
_ うーん、確かに「おしまい」になる動機が弱くはなってるんですよね……。
_ 新井素子作品を新井素子以外が再現した作品としては、 NHK-FMのラジオドラマ「グリーン・レクイエム」とか。 荻野目慶子がいい味出していました。音楽も良かったし。 あのテーマ曲はどうすれば入手できるのか? は新井素子関連情報のFAQです (答・楽曲そのものの録音された媒体、譜面ともに一般には売られてない)。
_ に出る。いろんな人といろんな話をする。
_ それにしてもSFの人で「DEEP」誌を読んでたひとってぜんぜん いないんだろうか? 3号か4号くらいであっさりつぶれてしまった 雑誌だったのだが、最終号での同業他紙を評論する企画には ぐっときたです。
_ みのるさんの日記 を読む。あー、「ブラック・キャット」のシリーズは集英社(コバルト文庫)では。 なお、続きは当分無理だと思います。ていうか、続きは書けるのだろうか?
_ 口工蔵さんの日記 も読む。 センセーショナリズムは短期的価値の方にのみ影響するもので、長期的な 関心は呼びにくいと思うのですがどうでしょう。
_ 市川さんの日記(2/14) を読む。うーん、国生とはなつかしい。って話じゃなくて。
_ とりあえず例の文章を読んで思いついた疑問。
_ 結局、自分で立てた仮説を自分で立てた仮説によって証明?してる だけで、まともな検証に耐えうるものではないと思うのですが。 そしてこの文章が何らかの意味でミステリに貢献するものでも ミステリに影響を与えうるものでもないと思うのですけど違うでしょうか。
_
あ、名前が挙げられていた人の中では、吉本隆明は
たいてい読みやすいです。柄谷ゆきと行人もまあまあ。
でも二人ともミステリの話はあんまりしてなかったような。
_ 吉本隆明と言えば、三浦つとむ「日本語はどういう言語か」(タイトルうろ おぼえ・講談社学術文庫)の解説の最初の部分が好きです。 これはなぜ本の評論というものが書かれるのかをていねいに書いた ものだったと記憶しています。手元にないから確認できないんですが。
_ そういえば最近浅田彰がどこかの雑誌で、「阿部君とか東君とかは ちょっと過大評価しすぎだったかも。あんな賞もらって喜んでるようじゃ だめだめだね」(ややパラフレーズ)みたいなことを言ってたような。
_ ともさんの「思いつき」(2/16) を読む。
_ 私的な価値、というのは、やはり広く共有される価値とは別かと思う。 ある人にとっては人生を左右するほどの価値を持つが、それ以外の 人にとっては何の価値もない、というものはいくらでもあるだろう。 例えば、私にとっての新井素子とか。極論を言うなら、 私が作っているすべてのものは、新井素子の作品についての註釈の ようなものだ。それは小説や評論についての言及はもちろん、 一見何の関係もなさそうに見える(かもしれない) 「ミステリ系更新されてますリンク」 ですらも、註釈作業の一部か、註釈のための試行だと私は思っている。 私の書いている言葉、作っているもの、関わっている事柄、 その全てがどこかで新井素子作品と結びついているように私には感じられて ならない。
_ しかし、同じ作品を読んでも、 まったく異なる風に感じてしまう人 もいる。人それぞれである。
_ 北村薫『スキップ』について。以下ネタバレ。
_ 作中では、真理子は17歳からスキップしてしまった、と 思い込んでいるわけだが、 例えば真理子が「前世から今世(? つまり前世にとっての来世)に スキップしてしまった」、などと言い出したら、旦那と娘はどうしたの だろうか? あるいは、いきなり「M78星雲からスキップしてきました」、とか 言い出したら?<それはスキップしすぎ……。
_ いや、当人の主観的な年齢が17歳になろうが107歳になろうが 10017歳になろうが、あるいは別の宇宙からやってきたと思っていようが、 やっぱり旦那にとっては「同じ真理子」なのかもしれないのかも、 と思ったのでした。それでも、 ヒラノマドカさん 的には「M78星雲からやってきた方の真理子さん(謎)の人格は救われない」とか 言うことになってしまうのでしょうか。
_ カルチャーにはハイカルチャーとサブカルチャーの断絶が あって、サブカルチャーにもサブカル系とおたく系があって、…… などといったことを東浩紀が語っていた。 が、そこに理工系的な文化がないことに、なにか猛烈に違和感を 感じてしまった。
_ テクノロジーやサイエンスは、その手の「カルチャー」の言葉で語る ことはできないのだろうか。
_ 一方、まつもとゆきひろさんの開発しているオブジェクト指向スクリプト 言語ことRubyが、ここに来て 欧米圏でもブレイクしそうな気配がある。 IBMのサイトで紹介された (これがまたすごくべたぼめな記事だったりする)せいらしい。
_ ruby-talkという英語圏向けMLは先週あたりから急に爆発気味。 RubyのNewsgroop (comp.lang.ruby)を作る作業が進行しているとか、今度英語の本 (Ruby本の翻訳ではない)が出るぞとか、 Rubyを使ったWindow Managerを作ってるぞとか、 「Rubyはscripting languageじゃなくてprogramming languageだ! Rubyをスクリプト言語というのはやめよう!」とか騒ぎだしたり、 「yieldはなんか変だ! callBlockにしよう! 大文字がだめなら callbackだ!」とかで盛り上がったり。
_ とにかく、日本で産まれて日本人が育ててきた言語が、世界のものに なろうとしている、という感触がびしびしと伝わってくる。 これは、今まで日本人が日本語で議論しながら決めてきたものを、 世界の人たちと英語で考えていかなければならなくなる、ということでも ある。はっきりいってめんどくさい。ていうか話についていくのも かなりきつい(汗; だが、本当に普及する、というのは、そういうところへも 浸透していく、ということだというのが、分かってきたような気がする。
_ テクノロジーでなら、日本からでも「世界」を相手にできる。 開発環境とIP reachableな環境と英語力があれば、この国にとどまらない 活躍がいくらでもできる。もちろん、それは容易な道ではない。 FreeBSDのnewconfigプロジェクトはnew-busに破れ、PAOの本家へのマージも すったもんだがあったようだし。しかし、こういった苦闘も、同じ土俵に乗って いるから始めて起きることだ。少なくとも、そこでは日本人も 日本人以外の人々も対等(かどうかはともかく)な闘いができる。 土俵に乗れなければ闘うことすらできない。
_ そして冒頭に戻る。日本のサブカルチャーは、 Rubyのように日本内外を相手に浸透していくことができるのだろうか? 日本の内外で闘うことはできるのだろうか?
_ ……などと思いながら、ひみつ文書の作成に勤しむ日々。
_ 日記のような体裁ながら、その日にあったことはあまり書いていないような 気がしてならない。
_ 今日はMYSCONのミーティング。だいぶ形が見えてきて安心。
_ 帰りに高田馬場で降り、北村薫『夜の蝉』を探しに行く……ところで、 SFなひとびと?にばったり出会う。おお、これが偶然の出会い ってやつか。ちょっと感動(*1)
_ その場にいた ちはらさんと新井素子話や北村薫話をしていたら盛り上がってしまい、 他の方と別れてBOOK-OFFに付き合ってもらう。途中、 北村薫論からヒラノマドカ論にも発展したような気もしないでもない (って書くと気になりますか?>ヒラノさん(^^; いや、なぜヒラノさんはあそこまで北村薫について語ってしまうのか、 彼女は北村薫の良い読者なのか悪い読者なのか、とかです)。
_ しかし、結局『夜の蝉』もそれ以外の円紫ものも見つからず。というわけで、 北村薫について書くのは少し先になります(_o_)
_ 吉本隆明は、思想だなんだという前に、詩人です。 まずは代表作である「固有時との対話」「転位のための十篇」を 読むべきでは。
_ そして次に本読みあるいは字書きとして読むべきものがあるとすれば、 それは「言語にとって美とはなにか」でしょう。 これは実作者がその実作者の直観をできるかぎり理論化しようと 苦闘した軌跡です。彼が土台にした言語学的知見などには 残念ながら間違いも多くありそう(なんせS・I・ハヤカワに三浦つとむ だし……)ですが、それは読み手が注意すればいいことで、古典的価値には 関係ありません。
_ この本のすごいところは何より自身の直観に頼らず、 できる限り一般的な理論を確立しようとしているところです。 先日来、評論や批評についての話題がWebに上がりました。が、 どうも隔靴掻痒の感が否めなくもありません。それは文学、あるいはミステリの 原理論がないからです。それは人間の認知の理論を土台に(その下には 情動や生物・物理の理論が来るはずですが)、言語の一般的な理論、 文芸の一般的な理論、小説の一般的な理論、ミステリの理論……と、 幾層にも積み重なる理論がなければ、その正当性も主張できない はず。これはそれを試みたものです。
_ 柄谷行人は……よく知りません(汗; 個人的には「探究I」が面白かった のですが(「II」はいまいち)、それは単に「読み物」としての面白さ だしなあ。
_ ちはらさん と少女マンガの話になったとき、「実は星野めみも好きだった」 みたいなことを言ったら「えーそれはぜんぜん少女マンガではないのでわ」 などと言われてしまった。彼女は今のいわゆるレディース方面に移ってからの 星野めみしか知らなかったようだ。ああ、年はとりたくないものだよ(詠嘆)。
_ 私にとって星野めみと言えば、「かくれんぼ手帳」「かくれんぼキッス」 である。これはもうはっきりいってべたべたなべた。でもそこが良いのである。 しかも、これがつい最近文庫になってしまったらしい。というわけで 一度読んでみるのはいかがでしょう>ちはらさん。 ちゃんと恋愛もある(というか恋愛しかない)ので、 林さん にもお勧めです(でも合わなさそう<だったらなぜ勧める)。
「……はじまったな」 「ああ」
_
というわけで、ついに始まってしまった
『新本格補完計画』
。
データ主義者の市川@錦通信新月お茶の会提供。全ての(新)本格読者必読。
_ 最近、日本のXMLなひとたちの間で RELAX(REgular Language for XML) が流行っている(いや、流行らそうとしている)。
_ RELAXの特徴は、ばりばり理論的なところである。「Regular Language」と名乗っているのは伊達ではなく、要するにあの 正規言語のことである(ちょむすきー)。 しかし、XMLなので、文字列ではなく木構造な正規文法だったりする。 これは「生け垣文法」(Hedge Grammer)と呼ばれるらしい。 RELAXは要するにDTDの賢い奴なのだが、RELAXの生成能力は (木構造の)正規言語の生成能力と等価であることが示されている。 きれいきれい。
_ ……と書いてみたが、これを「きれい」だと思う人というのは やっぱり一部に限られるんだろうなあ。生け垣オートマトンなんて どうでもいい、とにかく使えるDTDの代替物があれば他は 知らん、という人がほとんどだろう。それもちょっと もったいない気がしないでもない。
_ というわけで、村田さんが書いた生け垣オートマトンの説明を、 日本語訳 してみたり。 ばりばりDFAな説明なんぞを書いていると、大学の頃を思い出して 懐しくなったりする。
_ みのるさんの「お仕事は面白い」 を読む。元は日記だったもの。
_ ……うーん。わたしはそれほど森さんに思い入れがないのですが (「F」と「まどろみ消去」しか読んでないし(汗; でも、 「キシマ先生の静かな生活」は傑作だと思う。これには震えた)、 森さんの言うことはたいへん良く分かりました。というか、 みのるさんの意見にはあまり納得できません。
_ ……で、どう納得できないかを書こうと思ったのですが…… うまく書けません。みのるさんは新井素子を読まれる方 なので、新井素子「星へ行く船」所収の「雨の降る星 遠い夢」の 太一郎の台詞、
教えてやろうか。楽だからだよ。というのと、森さんの意見が同型のものに思える、とだけ 言っておきます。おとーさんはやさしいんじゃありません。 弱いんです。きっと。もちろん強くないのは罪ではないのですが、 だからといって弱いという事実がなくなるわけでもないのです。
_ ちはらさんの日記 を読む。うーん、こうして文字で読むとすげーきつく読めてしまうな。 でもやっぱりそう思っている。
_ それにしても、夜の古本屋で大学生の女の子に向かい、 人間の完全さと「悪」について語る、などというのは まるで円紫シリーズのようである :-) たいへん楽しい体験でした。ありがとう>ちはらさん
_ に遅れていく。都筑について熱く語られてしまう。
_ 安楽椅子探偵であるのはいいとして、「論理のアクロバット」という のはとても引っかかります。具体的にはどの作品に「論理のアクロバット」が あるのでしょうか。「アクロバット」というからには、 奇抜な推理が炸裂するとか、 論理の穴をぼこぼこに叩いて埋めていくとか、 推理が二転三転四五六転するようなものを想像するんですが…… これも言葉の定義が違う?
_ それにしても、 『結末で推論が事実だとわかる、という部分は別になくてもいいもの』 というのは、(本格)ミステリとしては致命的だと思うのですが……。その、 「一種の読者サービス」こそが(本格)ミステリの本質なのでは。
_ 昨日、創元(推理倶楽部)の護堂さんと帰る道すがら、 「ホワイダニットのフェアネス」について話した。
_ 法月の新冒険を読んで強く感じたことだが、ホワイダニット(なぜそうした のか? という動機当て)をフェアにやるのは難しい。犯人に向かって、 「きみは○○だから××したんだ。」と言っても、犯人が 「いいえ、××したのは偶然です」と言ってしまえばそこで 話が終わってしまう。そ、それじゃ推理にならないっしょ、といったような 話である。
_ これについては前からずっと考えていたのだが……暫定的な結論としては、 やはり本格ミステリとして面白いホワイダニットは困難である、という ところだろうか。 実際、「ホワイダニットの傑作本格ミステリは?」という問いに、 護堂さんもその場では思いつく作品がなかったようだし。
_ # あー、なんかつけ加えることがあればメールください>護堂さん
_ 昨日、都筑の『三重露出』が新宿紀伊国屋書店にあると聞いたので 行ってみたのだが、見事にない(;_;) まあそんなものか。仕方がない ので、MYSCONの予習のために海外ミステリを何冊か買う。
_ さらに帰りにBOOK-OFFにも寄ったのだが、なぜか くらもちふさこ『おばけたんご』を買ってしまう。
_ で、読む。
_ ……こ、この終わり方って、いったい。すごすぎる。くはー。 最後の40ページの展開、たんごの描き方、最後の1つ前の 見開き、最後のページ、その大胆すぎる省略の仕方。 ため息が出るよまったく。
_ うーん、一般に、作品全体に関わる「善し悪し」って決められるものなんだろうか。 よほど注意深く分析しないと、部分的な評価か、ニュートラルな「性質」か、 単なる好みの問題に落ち着いてしまうような気がする。
_ たとえば「人物がうすっぺらい」とか「話の起伏がなってない」とか 「テンポ悪すぎ」とか「熱力学が分かってない」とか言ったところで、 「別に気にならなかった。たいした傷でもない」と言われてしまうと、 そこで話が終わってしまうように思う。
_ でも、本当はその後をこそ続けたいのだが。
_ ローカルで書きためるばかりで更新しないのもまずいので、とりあえず公開。