月も変わってしまいましたが、とりあえずはRubyConfあたりまでさかのぼってみて。
RubyConfではまつもとさんと一緒の部屋に泊めていただいたのですが、 これって単に部屋代が安くなるだけじゃなくて、Conferenceのあとは まつもとさんと二人で延々話ができる、というとっても大きな特典も あったのでした。や、たいへん楽しかったです。発表前だというのに どうもありがとうございました。
さらに「SFはずっと読んでいない」というまつもとさんに、 『90年代SF傑作選』の下巻を押し付けてみたり(汗 あとは上巻も読んで、 90年代SF傑作選収録作考課表に 参加していただければ、もう立派なSF読みです>まつもとさん。 って、採点ルールとかはこれだけだと(あるいは マガジン考課表の方を見ても)わかりにくいかも。
18歳といえば。その頃、とても大好きな女の子がいました。
4月になって、私は大学生になりましたが、彼女はまだ高校生でした。 学校に行く途中、地下鉄の中で待ち合わせて、乗り換えの駅まで 一緒に乗っていました。そのまま駅で少し立ち話をしたりもしました。 あとは、休みの日に会ったり。
そのうち、彼女は本格的に内地の大学を受験することを決心したよう でした。私は素朴に応援していたような気がします。なにせ、 彼氏がいるから地元に残る、なんていう女の子と付き合いたい とは思っていませんでしたし。 当時はまだ、長距離恋愛の難しさも、何一つ知らなかったのでした。
いや、今でもなんにもわかってないみたいなんですけどね。
Ruby方面で18歳について書くのが流行っているので、私も書いてみました。 ちなみにコンピュータにはじめて触ったのは小学生のころでしたが、 18歳当時でもBASICとアセンブラの初歩くらいしか知りませんでした。
コバルトのYAシリーズが「ヤングアダルト」の略であることは ご存知でしょうけど、コバルト83年秋号に掲載されている YAの宣伝ページでは、「暴力、麻薬、レイプ、家庭崩壊…現代の 若者が直面する問題を描いて、爆発的人気! アメリカから 届いたビターな青春のエアメイル、YA小説をあなたも読んで見ませんか」 という文句が書かれています。そういう意識のもとに つけられたシリーズタイトルだったのでしょう。
そうそう、ついでに書いておくと、『月刊言語』とか『国文学』とかは、 見かけたらたいてい表紙か目次には目を通しています。 そういう趣味なのです。
18歳のころに好きだった作家は、新井素子とJ.P.ホーガンでした。 オースン・スコット・カードを読み始めたのはこのころだったかもしれません。 そして、ミステリを読み始めたのも18歳のころでした。
のっけから笠井潔さんが『ハッピー・バースディ』の引用をしているので びびってしまいました。
念のため、新井素子作品を読んでない人(いまどきの18歳な人には ぜんぜん読まれていなさそうですし)のために説明しておくと。 引用されているあの節は、素子さんの小説の文体的特徴が「あたし」による 話し言葉のような口語一人称であり、 その文体で一世を風靡した、という事実を背景として知っていると、 味わいがより深まる(というか、笑える)のでした。
笠井さんの新井素子論も読んでみたいですね。
とまれ、おつかれさまでした。
コバルトの新人賞といえば、1995年下期の ノベル大賞受賞作、遠田緩の『美歩!』が、 阪神大震災を舞台に、被災した家屋でケーキを焼く話だったことが 記憶に新しいです。商業出版物に掲載された 小説の中で、あの震災を扱ったものとしては おそらく最初期のものではないでしょうか。
というわけで、乙女の牙城はそういうところなのでしょう。
そうそう、『祈りの日』と『パーティーのその前に』(『シラトリ』改題) は、Cobaltにその冒頭部分が掲載されていました。が、掲載されたのは 文庫版じゃなく、応募時のものなのでした。文庫版とこれを読み比べるのは なかなか楽しいです。
上の文章を書くときにみつけた、 神山君の本棚 の、 Cobaltのページ。 感動。
とはいえ、「遠田緩 美歩」でgoogleを検索しても ここしか引っかからない(gooなどではどこも引っかからない)、 というのはちょっと切ないです。
なんと立石玲さんが「アンサンブル・プラネタ」を脱退。びっくり。 「とねりこ」や「すみれ」での立石さんの声はとても特徴的で、 19日のコンサートではぜひ聞きたかったのですが……残念です。
15年ほど前、杉真理とかPSY'SとかHi-Fi SETとか浜田省吾とか 楠瀬誠志郎とかピチカートとかを集めて作った謎のクリスマスソングが ありまして。それがこの『イエロー・クリスマス』で、 たまたまラジオを録音してたテープでしか聞いたことがなかったのですが、 なぜか突然この曲が入ったアルバムがCDになったようです。 しかもおまけのDVDつき。というわけで買ってみました。
映像の方ははじめてみたんですが、いやー、とにかく80年代。 思いっきり時代を感じさせてくれます。チャカも若いし。 しかも飯島真理も歌っていたなんて知らなかったよ……。
ついつい岡村孝子の『DO MY BEST』のDVDも出してきて 聞き比べて(見比べて)しまったり。
明日(もう今日ですが)は 大阪に行ってきます。
帰ってきました。(見た目は)20代前半のたかはしです。
関西のRubyな皆様にはお世話になりました。わざわざ夜行バスの 発車前まで付き合ってくださって感謝。
やっぱり、RHG読書会はやってみましょう(関東圏で、ですが)。 月1回で半年程度、はきつい? 詳しい話は出版された後で、ということで。
という谷山浩子『紙吹雪』とはぜんぜん関係なく、 Life with MacOS X の「10/30 がっかり」。 ツマラナイ人、というかつまらないメールですみません…… でも、いつもの私の言ったり書いたりしていることも、だいたい似たような ものでしかないようにも思います。ということはやっぱりつまらない人なのか。 うーん。
あの時いちばん書きたかったのは、 間違っているものがあったとして、「それは間違っている」と言いつのったとしても あらためられないことが予想される場合、 結局「間違っている」と言うことも暗黙の肯定でしかないのでは、というようなこと だったのですが、それにしては余計なことばかり書いていたようにも。
年に2回も陰陽師特集をやるのはいかがなものかと思ったのは 私だけではないでしょう。小説の方も、2002年2月号に書いていた 5人全員今回も登場してますし。来年の2月号では できなさそうだから繰り上げ、ということなんでしょうか? それなら仕方ないのか。
それにつけてもp.174の田中啓文『安倍晴明の真実』が……まさかCobaltで これをやるとわ。
昨日の宴会でちょっと話した 「Berlin Project」ですが、やっぱり 「Fresco」に 改名したみたいですね。
あと、XFormsは こちら。ちょっと古いですが紹介記事は こちら。
買いました。
すっかり書き忘れていましたが、昨日は生レッシグを見てきたのでした(生 山形さんは以前にもお会いしていたので)。
そんなわけで、 昨日はどうも。ちなみに一緒におられた荻野さんは、 この辺の下の辺りにいる方です(という紹介でいいんでしょうか)。
齋藤光治さんの土踏まず日記 2002.12.06 (金曜日)より。 えーと、ロマン大賞は長編の賞、 ノベル大賞は100枚前後の中篇?の賞と、違う賞なのです。
その受賞作の作者名は調べれば推測できそうですが、調べない方が よいのかも。
それと、有里さんの雑誌と本の関係の話については、 「仕方がない」というか、 雑誌の形で世に出るだけラッキーなことだと思っています。
私も昨日、たまたま本屋で「ず・ぼん8」を見かけて読んだのでした。 例の座談会の感想としては、まあ、この辺から議論が始まるのかなあ、 ちゃんと始められるといいなあ、といったところ。
ちなみに図書館のひと、G.C.Wさんも 10月29日の日記でこの本について書かれていましたね。 にしても「滋賀と大阪の公共図書館員」っていったい(汗 それと「ふみおっち」っていったい(さらに汗
あー、少しカウンタを回すのに協力できた、あるいはしてしまった かもしれません。
「一枚岩とは言い難い」のは、G.C.W.さんの日記からも 伝わってきます。あるいは、図書館側の風通しをよくするためにも、 図書館に対して有益な批判を望んでいることもあるのかなと。 また、「滋賀と大阪の」の件は、妙に具体的な都道府県名なので、 ひょっとすると特定の人を念頭にされているのか(そして そーゆー特定の人がいらっしゃるのか)と思ったのでした。
もうひとつの件は、いやその、イメージの問題でして……。
突然ですが、今日、やっと無線タグが何を目指しているのかが理解できました。 愕然としました。
無線タグについていろいろな説明の仕方がされていますが(それで 気づかない私も私なんですが)、 Rubyなひと(OOPを知っているひと)には、こう言えばわかりやすいでしょうか。……あれはつまり、 世界中のありとあらゆる工業製品にIDを振り、それを非接触で識別できる ようにしよう、というんです。
つまり、現実世界をそっくりそのまま分散オブジェクト環境にしようと してるんですよ。
オブジェクトとは、IDとふるまい(メソッド)と内部状態(インスタンス変数)を 持ったものだという言い方があります。 もちろん工業製品につけられたタグには演算能力はありません。そのため、 ふるまいも内部状態もありません。が、IDが振られてるんです。 ユニークなIDが。そうすると、そこそこ(今の PCくらい)の演算能力と、IDを読み取る能力をもったものが 家具や家電に埋め込まれていて、それらが無線でつながっていたならば、 そいつらが工業製品のIDをキーにして、そのIDのオブジェクトが持つ ふるまいや内部状態を取り出せるようなDBみたいなものを持つことができます。 その製品に対するメッセージは、周囲の家具が代わりに実行するわけです。 だから、気分的には、そこらに転がっている本や服やジュースや傘に、kind_of?メソッドを 投げたりrespond_toメソッドを投げたりinspectメソッドを投げたりできるわけです。
もうちょっと具体的な例でいきます。本に無線タグがついているとしましょう。 そして、家の本棚がそれを認識できるとします。本が本棚からあふれても、 たとえば床やベットや机や椅子がそれらのタグを認識できるはずです (そういう世界になるはずです)。そしてそれらの床やベットや机や 椅子はIPアドレスを持っていて、相互に無線で通信できるはずです (そういう世界になるはずです)。 そうすると、その部屋にどんな本があるのか、完璧にわかります。 いつどの本が本棚に入れられたか、本棚から取り出されたかも 全て本棚(や家具や家電)が知っているようになります。
それだけではありません。本棚から取り出してかばんに入れたとします。 当然ながらかばんも計算能力とIPアドレスを持っていて、本棚は そこから本が移動したこと、かばんは本が入ったことを認識します。 そして、本棚やかばんは近くのものにブロードキャストなり マルチキャストなりして、本の移動を通知し合うようになれば、本棚から かばんに本が移動したことを、本棚もかばんも認識できるように なります。本が見当たらなくなったときでも、本棚に聞けば 「○月×日△時に、あのかばんに突っ込んでいた」と教えてくれます。
また、本棚がネットにつながっていれば、これはつまり 一歩さんの期待する「書籍登録」「書籍選択」「類似度算定して同趣味さん検索」 といったことを、本棚が全自動で勝手にやってくれるようになるわけです。
これは本の話です。本以外の全てもこうなるはずです。
あまりにすごすぎますね。 いや、わかってた人にはごくごく当たり前の話なんでしょうけど。
もちろん、初期の無線タグではここまでのことはできないでしょう。 また、実運用上では、遮蔽技術や恣意的にノイズを入れる技術が ないと危なくて話にならないので、その辺も考慮されるでしょう。 でも、目指す社会の方向は、間違いなくこちらを向いているように思います。
いまさらながらのweblogですが、現象的には、Web日記よりも 2ちゃんねると比較するべきなのかもしれません。
ためしに、 Rebecca Bloodさんの「Weblog Ethics」の yomoyomoさんによる日本語訳の冒頭部分を、 「ウェブログ」という言葉を「テキストサイト」にして読んでみましょう。
テキストサイトの倫理
テキストサイトはオンライン世界の一匹狼である。情報を濾過しつつ広範な聴衆に広めるのが可能なことと、マスメディアの主流の外側にいられる立場の二つが、テキストサイトの最大の強みである。テキストサイトは、誰の目にも監視されることなく、独自の気紛れな基準に従って注意を向け、論評を行い、情報を広める。
テキストサイト・ネットワークが持つ潜在的な影響力こそが、メインストリームの報道機関がテキストサイト現象を研究し出している真の理由なのかもしれないし、テキストサイトについて語るところの多くが、おそらくテキストサイトをジャーナリズムとして捉えている。テキストサイト管理者は自分達を管理することや自分達の影響力について考えていないかもしれないが、商業メディアはそれを念頭に入れている。マスメディアは、何においても広範な聴衆を獲得しようとする。プロの出版、放送になれば、その命脈となる広告収入は、そのメディアが獲得した聴衆の数で決まるからだ。ビジネスの見地からすれば、媒介となるものが紙であれテレビであれ、コンテンツは読者の目をスポンサーに向けさせるためだけに存在している。
(略)
……うーんと、なんかちょっと違和感があります。 「Web日記」でも「個人ニュースサイト」でもやっぱり座りが悪そうです。
では、これを「2ちゃんねらー・2ちゃんねる」にしてみれば。
2ちゃんねらーの倫理
2ちゃんねらーはオンライン世界の一匹狼である。情報を濾過しつつ広範な聴衆に広めるのが可能なことと、マスメディアの主流の外側にいられる立場の二つが、2ちゃんねるの最大の強みである。2ちゃんねらーは、誰の目にも監視されることなく、独自の気紛れな基準に従って注意を向け、論評を行い、情報を広める。
2ちゃんねらー・ネットワークが持つ潜在的な影響力こそが、メインストリームの報道機関が2ちゃんねる現象を研究し出している真の理由なのかもしれないし、2ちゃんねらーについて語るところの多くが、おそらく2ちゃんねるをジャーナリズムとして捉えている。2ちゃんねらーは自分達を管理することや自分達の影響力について考えていないかもしれないが、商業メディアはそれを念頭に入れている。マスメディアは、何においても広範な聴衆を獲得しようとする。プロの出版、放送になれば、その命脈となる広告収入は、そのメディアが獲得した聴衆の数で決まるからだ。ビジネスの見地からすれば、媒介となるものが紙であれテレビであれ、コンテンツは読者の目をスポンサーに向けさせるためだけに存在している。
(略)
さっきよりもずっと意味が通りそうです。
それとともに、weblogのethicsというものに、ちょっと微妙な感覚を 持ってしまいます。「は? 2ちゃんねらーの倫理ですか?」というような。 実際のbloggerはどうなんでしょうね。