同じような問題が、さまざまな場所で繰り返し語られているような気分に なることがあります。
「問題」といってもいろいろあるわけですが、 それなりの荒さで類型化したうえで、 はたして世界に「問題」はいくつあるのでしょうか。
それぞれの問題を、たとえば2000字程度で記述したとして、 何文字(あるいは何バイト)あれば、「世界の全ての問題」を 記述できるでしょうか。
そしてそれを記述しきったとして、それは問題の解決に 役に立つでしょうか。
んー、なんか.NETってたのしそうですね。 MS好きなひとにはたまらないんだろうなあ (というかそれまでがひどすぎ?)、と思わせてくれます。
新井素子的日記(暫定版)の『「SFマガジン」2003年7月号。』より。
『星へ行く船』ではなく『いつ猫』が挙げられている理由ですが、 おそらく「ヤングアダルト関連年表」的には、新井素子がコバルトに 登場したこと自体が重要な事件だったんではないでしょうか。 なので、コバルトに登場した最初の作品が挙げられているのでしょう。
なんだかんだいって、現在のラノベにまでつらなる小説の歴史のなかで、 新井素子の影響力というのは相当大きいと思うのですよ。 氷室冴子ですら『さようならアルルカン』ではまだ普通に 「文学少女」な小説を書いてたりしたのに、素子さんの場合は いきなり『あたしの中の……』の、あたし一人称&地の文崩しまくりな文章で デビューしたわけですし。 小松左京と筒井康隆が反対したのも無理はないというか。
素子さんが「ライトノベル」というジャンルについて発言していた文章ってのは、 私もちょっと記憶にありません。「ライトノベル」という言葉が 広がり始めたころ(90年代後半?)には、もう素子さんは コバルトからもだいぶ離れていましたし。
ところで、それほど重大な事件だった「あたし一人称」は、 今はコバルトにはほとんど存在していない、といっていいくらいに 見かけなくなったような気がします。 いやまあ、響野夏奈『振り返れば先生(ヤツ)がいる』のように 全くないわけではないのですが、 でもこの本も文章がちょっと古臭い感じがしました(話自体は それなりに面白かったんですけど)。
一人称でまともにお話を作るのは実は難しくて、 久美沙織さんの小説の書き方本でも避けるべし、と書かれているので、 みんなが避けてきた結果なのかもしれませんが、 ちょっとさみしい気もします。
今風にカスタマイズされた、21世紀の「あたし」を読んでみたいです。
日刊海燕より。
もちろんこれまで女性だけの「仲良し空間」を描いた作品がなかったわけではないだろう。だがそれはここまで雑多な人間性を許容するようなものではありにくかったのではないだろうか。女の子のコミュニティは似たような性格の持ち主で構成されるもの、というイメージがあったせいだろう。しかもそれはどこか相互依存的で「裏切り者」を赦さないような緊張感をも感じさせるものであることすら少なくなかった。そのうえそのコミュニティはやがて来たる恋愛関係の介入によって崩壊することがほとんど運命づけられていた。(以下略)
えーっと、『マリみて』とともに語られることの多い、 氷室冴子『クララ白書』なんかは「雑多な人間性を許容するもの」だったと 思いますが、違いましたっけ? あとは、ちょっとあたらしめな 作品では、紺野キタ『ひみつの階段』(これは漫画)とか。
つうか、その辺の「ゆるさ」はある種の少女小説の伝統にのっとっているものだと ばかり思っていたのですが、どうなんでしょう。
だいたい、女の子からチョコレートをもらえないくらいでやさぐれるのが 間違ってると思うのですよ。おいしいチョコレートは自分で 買ってもおいしいものです。
というわけで2/14は、男三人で銀座でチョコレート屋めぐりをしてました。
リシャールとピエールマルコリーニははじめて行ったんですが、 後者は混んでて並ばされました。ルショワも奥の喫茶には 何度か行ったことがありますが、チョコだけ買うのははじめてです。
さらに、松屋の地下で 「おとこたちの空間 スパイシーレーズンチョコレート」 なるものを入手。上記三店から仕入れたチョコレートとともに、 松屋屋上で試食会となりました (ちなみに上記チョコレート代金は3人合計で六千円くらい)。
リシャールのチョコはまあ普通においしい感じでした。 ピエールマルコリーニは酸味と甘味のバランスがよいです。 ルショワのはちょっとアルコールっぽさが強いかも。 スパイシーレーズンは……後味にはこしょうしか残らない のはいかがなものかと。まあ酒のつまみでしょうか。 でも、岩塩チョコは食べてみたいところです。
一番おいしかったのはピエールマルコリーニでしょうか。 混んでいたのも道理ですね。 今度カフェの方にも行ってみるつもりです。
とりあえず、 ストーリー紹介と 人物相関図を見ればだいたいどんな話かわかります(嘘)。 ついでに初期マリみてブームのきっかけになったとも言われる まんが王倶楽部のマリみて特集も見れば安心ですね。
それはさておき、Cobalt2月号の今野緒雪特集での作者のことば、 「作家「今野緒雪」はこれで消えるだろうと思ったことは、 実際何度もありました。」には、実はマリみてよりも『夢の宮』の 方が冊数が出ている(2004年2月現在)ことも合わせて、しみじみします。 よかったですね。
私はFate/stay nightをやっていないので、やっている人と比べると 私は約60時間ほどひまなはずです。はずです。はず。
新井素子的日記(暫定版)より。
例の章をざっと流しただけで、 本全体は読んでないのですが。 マンガではなくアニメを強調するのは、 そうしないと彼の論旨がぶれる、もしくはおかしくなるからでしょう。 あの本のなかではどうやらマンガは「内面を描かない(?描けない?)にも かかわらず内面を描こうとする(?描けてしまう?)媒体」という 位置づけなのに、素子さんが言うところのマンガは内面がとろけおちて しまっているような代物です。だもんで、素子さんが言うような 意味での「マンガ」は大塚氏にとっては「マンガ」ではないのです。 そのため、「アニメ」という言葉が強調されたのでしょう。 もっとも、素子さんと大塚氏の「マンガ」という言葉の持つ意味の差についても 無視できないような気もしますが。
あと、話し言葉については、「SFの本」9号の新井素子インタビュー (聞き手:川崎賢子)でも強く否定されてますね。もちろんこのインタビューにも、 マンガのように早く読める文章云々の話がでてきています。
「Object and Class semantics for Parrot」が ついにまとまったらしいです。0.1.0は今月29日だとか。